【連載・第2回】~賀数仁然さんと巡る沖縄の世界遺産~三山時代の激動と歴史ロマンに震える!「今帰仁城跡」へ
沖縄には世界に誇る9つの世界遺産があり、約450年にわたり築き上げられた琉球王国の歴史背景や文化に触れることができます。沖縄県民にはおなじみの琉球歴史家・賀数 仁然(かかず ひとさ)さんのガイドのもと、沖縄の世界遺産を巡る連載シリーズ!首里城復興に向けて、全8回に渡りお届けします。連載・第2回目は、北部きっての巨城「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」を訪れました。
三山時代、北部を制していた巨城「今帰仁グスク」
今帰仁城跡は、今帰仁村の標高約100mの高台にあるグスク跡。さかのぼること14世紀、“琉球王国” 成立以前のこの地は、「北山(ほくざん)国」という一つの国でした。今帰仁グスクは北部エリアを制していた王・「攀安知(はんあんち)」の居城として一代を築いてきたのです。
琉球王国成立後の「首里城」に匹敵するほど規模が大きいことからも、往時の権勢がうかがえます。
仁然さんガイドならではのワクワクする豆知識たっぷりで、今帰仁グスクの見どころをご案内します!
今回の案内人
賀数 仁然(かかず ひとさ)さん
那覇市出身。琉球大学非常勤講師を経て沖縄大学地域研究所特別研究員。
沖縄の歴史文化をエンタメとして発信。琉球歴史ドラマ、ドキュメンタリー、映画、舞台などの脚本・監修など幅広く手掛ける。所長を勤める「クボウグランデ」の歴史ツアーも好評。著書『さきがけ!歴男塾』の最新・4巻が発売中!
■穴場な見どころ①「今帰仁のムラ跡/ハンタ道」
今帰仁グスク巡りをスタート!まず仁然さんが案内してくれたのは、城方面から横道にそれた、うっそうとした山道⁉
当時、北山グスクのふもとには琉球独自の造りの城下町があり、今でも集落跡として「今帰仁ムラ」の存在を感じ取ることができます。
村は1416年、尚巴志(しょうはし)の襲来による北山陥落(ほくざんかんらく)と、1609年の薩摩藩の侵攻の二度にわたり燃やされてしまいます。写真の、森の中の「ハンタ道(崖沿いの道)」を通り、敵軍が乗り込んできたといいます。
■穴場な見どころ②「ミームングスク」
獣道のようなハンタ道を進んでたどり着いたのは、見晴らしのいい丘にそびえ立つピラミッド型の「ミームングスク」。「なぜ、この場所にこんな石積みが?」という謎に包まれた遺跡です。
<仁然さん> 城へと続くハンタ道沿いにあることから、監視施設との説もありますが、個人的にはなんらかの宗教施設と考えています
~まるわかり!今帰仁城ヒストリー「北山陥落」~
琉球王国ができる前の14世紀、沖縄本島は北山・中山・南山と3つの国に分かれていました。
北山国は本島北部から奄美諸島まで勢力を広げましたが、1416年、尚巴志率いる中山軍に攻められ滅亡しました。
三山時代、最も勢力を誇っていた中山の※按司(あじ)・尚巴志(のちの初代琉球国王)。※按司(あじ)…各地域で政治的支配を行っていたリーダー。
羽地(はねじ)按司、国頭(くにがみ)按司、名護(なご)按司など北山系の主な按司たちは、尚巴志側に付いた方が有利だと寝返ってきたそう。
「これでは北山の按司がいなくなってしまう…」と恐れた北山王は、中山の襲撃を計画。しかしその情報も中山側に筒抜けで、逆に尚巴志軍がハンタ道から攻めてきました。
騎馬隊を持つ北山軍は非常に強く、城壁の上から大量の矢や石を投げて応戦。苦戦を強いられた中山軍の苦労は「三昼夜(さんちゅうや)戦うも、一歩も進めず」と歴史書「中山世鑑(ちゅうざんせいかん)」に記されています。
「今帰仁グスク」随一!鉄壁の石積みのヒミツ
改めて、今帰仁グスク敷地内に潜入!
今でいう沖縄本島は北から南にかけて珊瑚が隆起してできた土地で、今帰仁グスクがある本部半島は、琉球列島の中でも最も古い場所なのです。
今帰仁グスクの城壁は、割れた天然の石を組み合わせて積んでいく「のずら積み」製法。琉球のグスクの中でも珍しい造りで、漆喰や接着剤などを使っているわけでないので崩れやすく、当時は何度も積み直しをしていたと思われます。
<仁然さん> 手作業で、当時こんなにも堆(うずたか)く積み上げるのはものすごい技術です!
<知ってた?RYUKYU豆知識>
今帰仁グスクにアンモナイトあり!
今帰仁グスクの城壁で使われている石はちょっと特殊。中城城、勝連城、首里城などの城壁は200万年前の「琉球石灰岩」でできているのに対し、今帰仁グスクの石はなんと3億年くらい前のもの!
14世紀に構築された今帰仁グスクからは、なんとアンモナイトの化石が発掘されています。(沖縄のグスクでも今帰仁城だけ!)
城壁で、さらに世界遺産の遺跡から化石が発掘されるのは世界的にも珍しいことです。
■穴場な見どころ③「大隅(ウーシミ)」
平郎門(へいろうもん)から入り、「七五三(しちごさん)の階段」から左にそれたところに広がる「大隅(ウーシミ)」と呼ばれる広場。ここから多数の馬の骨が発掘されており、ここで馬を飼い慣らし訓練をしていたと言われている場所です。
北山軍は騎馬隊を持っているのが強みで、軍事力を誇る中山軍が北山を攻めた際に3日間苦戦を強いられたのは、攻め入りにくいグスクの構造と騎馬隊の効力によるものと言われています。
<仁然さん> 当時の馬は、サラブレッドのような足の長い馬ではなく、足の短いロバのような与那国馬だったそうですよ
■穴場な見どころ④「旧道」
同じく「七五三の階段」の反対側の脇にそれたところにある「旧道」へ寄り道。このあたりは、春に桜並木が咲き誇る桜の名所としても知られていますね。
正殿へと続くこの旧道。防衛的に作られているので道幅は狭く、急な登り道になっています。
ここにある岩壁の石は、まだ日本列島が中国大陸から分かれたくらい昔からのもので(沖縄と九州が地続きの時代)、いわば“九州と繋がっている”と言える、歴史深いものです。
<知ってた?RYUKYU豆知識>
きらびやかな北山国の発掘品にはモンゴルのルーツあり?
今帰仁グスクから発掘された外国製の陶磁器の数々は、隣接する「今帰仁村歴史文化センター」で見学することができます。
「青花(せいか)」と名前が付く陶器・青磁器(写真左)は高級品で、明から輸入されたもの。北山国がいかに武力があり繁栄していたかがわかります。「馬上杯(ばじょうはい)」(写真右)は、名前の通り、馬に乗りながら使っていた器で、モンゴル的な文化を感じられる一品です。
クライマックスは王が暮らした「正殿」エリアへ
グスクの一番高い場所に、王が住んでいた「正殿」跡地があります。首里城も同じ構造で、一段上に正殿があり、その前の広場で家臣や側近が見守るという琉球のグスクの特徴が見受けられます。
<知ってた?RYUKYU豆知識>
“今帰仁美人”のルーツ⁉「志慶真乙樽(しげま うとぅだる)」の碑
志慶真(しげま)村出身の娘で、絶世の美女で、あまりにもきれいなので王が側室にしたと言い伝えられるのが「志慶真 乙樽(しけま おとだる)」。「今帰仁御神(うかみ)」というあだ名で呼ばれるようになります。
正殿に建てられた石碑には、「北山王に念願の子(ようやくできた跡取り)が生まれた際に、乙樽が“クニブ(みかん)”を首飾りなどで身に着けてとても喜んだ」と唄が記されています。
<仁然さん> “乙樽=今帰仁美人の発祥”説が先行していますが、石碑に記された“クニブ”の解釈は様々な考察ができ、“御神”というあだ名からも、多大な神通力を持つ女性…“神様(ノロ)”だったのでは、とも考えられます
■御内原(うーちばる)
琉球のグスク内には、例外なく聖域(御嶽・うたき)が存在します。祈る場所が必ず内包されているのは琉球ならでは。
今帰仁グスクの中で一番の御嶽が写真の「テンチジアマチジ御嶽」。グスクで最も高いところに位置し、女官(王をお世話する人)たちが暮らしていたところにあり、伊是名島や伊平屋島が見渡せるビューポイントでもあります。
今帰仁の神様が降りてくると言われる場所で、ここで毎日、北山王は祈りをささげていたそう。古い香炉が置かれ、背後には御神木(ごしんぼく)があり、大きな石は神が鎮座する「イビ石」と言われています。
~まるわかり!今帰仁城ヒストリー「北山陥落」~
北山王の右腕的存在の「本部平原(もとぶていはら)」は、裏で中山側に寝返ります。
中山軍が攻めてきた際、本部は「尚巴志軍は風前の灯で戦意消失しています。いま、王が自ら馬を引き連れて出陣すれば驚いて退散するはず」と北山王に提案します。それにのった北山王は出陣し、その隙に本部は、反対側の崖に潜んでいた中山の20名を中に引き入れます。
城の中から煙があがり、本部の裏切りを知った北山王は、本部が中山軍とともに正殿を燃やしているところを切りつけます。急いで城内に引き返すも、時すでに遅し。どんどん尚巴志軍が乗り込んできて、観念した王は自決します。これが「北山陥落(かんらく)」の一部始終です。
敗北を覚悟した北山王はこの御嶽に来て手を合わせ、「今まで祈りをささげて北山を守って下さいましたが、どうやらこれで北山は終わりのようです。ともにあの世にいきましょう」と言い残し、刀でイビ石を切りつけ、さらに自らも自決します。イビ石に残されたヒビは、その時の傷跡だと言い伝えられています。
北山王の自害とともに、志慶真川に落ちた刀「千代金丸(ちよがねまる)」は、後に発見されて尚巴志へと渡され、“尚家の刀”となり国宝/重要文化財に指定されています。
実物は那覇市歴史博物館に保管され、「今帰仁村歴史文化センター」では精密なレプリカを見学できます(写真)。
馬に乗りながら片手で持てるように“つか”(持ち手部分)が短いのが特徴で、騎馬隊を有した北山軍ならではの設計(もう片手は手綱を引くため)だと考えられています。
<知ってた?RYUKYU豆知識>
今帰仁になぜ首里のものが?首里王府マーク付きの石碑
正殿の「火の神(ヒヌカン)」祠の横に建てられた「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)」(県指定文化財)。「ここは元々、北山監守が住む場所であり、首里が管理している」といった内容が記されています。
尚巴志に滅ぼされた後、今帰仁グスクには監守(管理人)が首里から派遣されて代々監視に来ていましたが、1609年に薩摩攻略の際に滅ぼされ、監守も殺されてしまいます。そして18世紀に監守制度は廃止され、廃城となった際、これまでの歴史と実績を後世に称える目的で、この石碑が建てられました。
“監守がいた”という実績を記す意味で、上部に“国王”を表すテダ(太陽)マークが記されています。この「テダマーク」は首里王府から出たものとされ、一般のお触れとは異なる重みを持たせたもの。首里城をはじめ、さまざまな史跡に残されています。
■志慶真城郭(しげまじょうかく)
最後にご紹介するのは、正殿の先にある見晴らしのよい広場「志慶真城郭(しげまじょうかく)」。国王に仕えた身近な人たちが住んでいて、発掘調査により4つの建物があったことがわかっています。
当時の城壁の下には志慶真(しげま)川が流れ、断崖絶壁となっていました。
写真の「志慶真城郭」の端にあるこの場所は、北山陥落の際に裏切者の本部が中山軍20人の精鋭を中に引き入れたところ!
<仁然さん> あまり知られていませんが、この20人を率いたリーダーは、若き日の“護佐丸(ごさまる”(当時は山田グスクの按司)だと考えられます。この時の功績が認められ、尚巴志王の信頼を得て、後に座喜味(ざきみ)城を作り、のし上がっていくのです。そしてこの後も、波乱万丈な歴史ドラマが待ち受けています…!
連載・第3回「座喜味城跡 編」に続きます。乞うご期待!!
※琉球史や神話においては諸説ありますが、本記事の内容は琉球王朝の正史『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』1650年、1840年の「聞得大君加那志様御新下日記(きこえおおきみがなしさまおあらおりにっき)」といった書物に基づいています。
史跡巡りは、日除けと虫除け、熱中症対策を万全に、歩きやすい服装で行ってくださいね。
〈施設情報〉
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
[住所] 〒905-0428 沖縄県今帰仁村今泊5101番地
[電話番号] 0980-56-4400
[営業時間] 通常期間(1~4月、9~12月)8:00~18:00/最終入場17:30
夏期延長期間(5~8月)8:00~19:00/最終入場18:30
[定休日] なし
[駐車場] あり
[入場料] 大人 600円、中高生 450円、小学生以下 無料 ※すべて税込
[クレジットカード] 使用可
[電子マネー] 使用可
[HP、SNS] ホームページ
お支払いには、便利でおトクなau PAYがご利用になれます! ※物販は除く
首里城復興応援プロジェクト「SYURI NO UTA」
沖縄セルラー電話(株)では首里城復興応援ソング「SYURI NO UTA」プロジェクトをサポートしています。
本プロジェクトは、2019年に沖縄に所縁のあるアーティストが集結し、首里城復興を願う大人から子どもまでみんなが⼝ずさむような、素敵な歌をつくりたいという想いから始まりました。
大切なのは、忘れない心。
そして、伝え続ける勇気。
沖縄県内のみならず、日本中・世界中の方へ「SYURI NO UTA」と首里城復興への想いが届くことを願っています。
「SYURI NO UTA」特設ページ
詳しくはコチラ!
企画・編集:Laifue編集部
文:花城 綾子
撮影:小橋川 恵里奈
<賀数仁然さんと巡る沖縄の世界遺産>
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