2026.01.30
地域
お出かけ情報

[連載・第5回]賀数仁然さんと巡る沖縄の世界遺産~地元の英雄・阿麻和利の真実をたどる「勝連城跡」~

沖縄には世界に誇る9つの世界遺産があり、約450年にわたり築き上げられた琉球王国の歴史背景や文化に触れることができます。おなじみの琉球歴史家・賀数 仁然(かかず ひとさ)さんガイドのもと沖縄の世界遺産を巡る連載シリーズ!2026年秋の首里城復興に向けて、全8回に渡りお届けします。

第5回は、地元の英雄・阿麻和利(あまわり)が繁栄させた、うるま市の勝連城跡(かつれんじょうあと)を訪ねます。今回も仁然さんならではの視点と豆知識を交えながら、グスクの見どころを巡ります。

今回の案内人

賀数 仁然(かかず ひとさ)さん

那覇市出身。琉球大学非常勤講師を経て沖縄大学地域研究所特別研究員。
沖縄の歴史文化をエンタメとして発信。琉球歴史ドラマ、ドキュメンタリー、映画、舞台などの脚本・監修など幅広く手掛ける。所長を勤める「クボウグランデ」の歴史ツアーも好評。著書『さきがけ!歴男塾』の最新・4巻が発売中!

十代目城主・阿麻和利の時代に大きく栄えた勝連城

沖縄本島中部・うるま市にある勝連城は、13世紀頃に築かれたグスク跡で、標高約98メートルの丘の上に位置し、太平洋と東シナ海を一望できる眺望でも知られています。城は5つの曲輪(くるわ)から構成され、それぞれの城壁は琉球石灰岩の切り石を用い、曲線を描くように築かれています。
海外交易で力を伸ばした10代目城主・阿麻和利の居城として知られ、首里王府への反逆者として語られてきた一方で、勝連の発展に大きく貢献した人物として、今では多面的に評価されています。

<仁然さん>何百年もの間、歴史上では謀反者として描かれてきた阿麻和利ですが、歌集『おもろさうし』によると、勝連に富と文化をもたらした“英雄”として唄い継がれています。
そして2000年に上演が始まった現代版組踊『肝高の阿麻和利』の人気をきっかけに、その人物像は改めて見直されるようになります。実は、こうした再評価はごく最近のことなんです。

 ~まるわかり!勝連城ヒストリー「阿麻和利を囲む人間関係」~

♦阿麻和利(あまわり):
もとは現在の嘉手納町・屋良の出身で、幼少期は身体が弱く、捨て子であったようです。勝連の人々に救われ、悪政を敷いていた茂知附(もちづき)按司を討ち、勝連の民に推され按司となり交易の才能を発揮。勝連を発展させ、人々に親しまれていた存在。

♦百十踏揚(ももとふみあがり):

琉球王・尚泰久の娘。勝連に嫁がされて阿麻和利の妻となる。

♦護佐丸(ごさまる):
軍事と築城に優れた名将。1458年の「護佐丸・阿麻和利の乱」で阿麻和利に中城城を攻められ、家族とともに自害した。

♦尚泰久(しょうたいきゅう):
首里王府を治めた王。父は尚巴志。妻は護佐丸の娘で、娘の百十踏揚は護佐丸の孫にあたる。

♦賢雄(けんゆう):
尚泰久王の右腕として仕えた武将。百十踏揚の護衛役として勝連へ派遣された人物。

♦金丸(かなまる):
首里王府に仕えた頭脳派の官僚。のちに即位し、第二尚氏王統を開く。

<仁然さん>モモトの本名は「千回踏みあがる」を意味する百十踏揚。その名から、神事に関わる力を持っていたという伝承も残されています。
尚泰久の信を置く部下は金丸賢雄。尚泰久は実娘・モモトを阿麻和利に嫁がせ、賢雄をボディーガードとして付けます。さらに尚泰久の王妃は護佐丸の娘。登場人物たちは“親族同士”でもあり、阿麻和利とモモトの結婚が政略的なものであったことも見えてきます。

一見すると曲線が美しい勝連城の石垣ですが、その構造は防御を重視した緻密な設計。 城内へ続く動線や階段は螺旋状に配置され、敵を直進させない仕組みになっています。

また、城壁には兵が上や横から攻撃するための「武者走り」と呼ばれる棚上の構造があり、攻め込む側にとって不利な造りでした。

<仁然さん>1458年、阿麻和利の脅威を恐れた首里王府からの指令を受け、武将・賢雄は、勝連城討伐に向かいます。

城があまりに堅牢だったため正面突破は困難で、賢雄は女装し「首里に追われている」と助けを求める振りをして城内に潜入した、という記録が正史『球陽』に記されています。そして城に入り込み、最上部にいた阿麻和利を討った…。当時の状況は定かではありませんが、記録からも勝連城の堅牢さが伝わってきます。

<知ってた?RYUKYU豆知識>

独自の防御構造(左:田んぼ 右:堀切)

勝連城では、正門前にあえて田んぼを設け、平時は米づくりの場、戦時は湿地帯として馬兵の侵入を防いでいました。
また城外の「東の曲輪」には、深さ2〜3メートルの堀切が掘られ、東側からの攻撃を防ぐ役割を果たしていたと考えられています。

勝連城の裏門側からは中城湾を一望できます。阿麻和利は南側の港町「南風原御門(はえばるうじょう)」を拠点に海外交易を活発に行い、小型船で物資を運び、勝連は繁栄を築いていきました。

<知ってた?RYUKYU豆知識>

1960年代の発掘調査で、「宝物庫」があったとされる「一の曲輪」を中心に、日本・中国・東南アジア由来の遺物が多く出土されています

中でも「元様式青花(げんようしきせいか)」は、グスク時代には極めて貴重な交易品中国がの時代に技術が確立した青花(染付)磁器は最高水準の工芸品でした。その技術はヨーロッパでは長らく確立できず、18世紀になってドイツのマイセンでようやく確立されたほど高度な技術でした。

これらは日本を介した中継貿易によってもたらされたと考えられ、勝連が広域な交易ネットワークを独自で持っていた証でもあります。

四の曲輪や城外からは、4世紀ごろのローマ帝国時代に鋳造された西洋の貨幣が見つかっています。 阿麻和利の時代から見ても、すでに約1000年を経た非常に古い貨幣です。 なぜ古代ローマのコインが出土したのか、その入手経路や理由は今もわかっておらず、勝連城最大の謎のひとつです。

<仁然さん>謎に包まれたローマコインですが、阿麻和利が中国や東南アジアと交易していて、西の彼方のローマ帝国の話に惹かれ、琉球の未来を思い描く象徴として手に入れたのかもしれません。
またこれは自論ですが、妻・モモトが幼い年齢で勝連に降嫁されたとする事も考えられます。ローマコインやサイコロといった出土品は、幼いモモトにおもちゃを与えるような“贈り物”だったのかもしれません。そう考えると、阿麻和利は単なる反逆者ではなく、優しさと大きな夢を抱いたロマンチストだったとも言えるでしょう。

首里城を思わせる、2~3階建ての壮麗な正殿跡

二の曲輪にあった正殿は、阿麻和利が最も勢いを誇った時代を象徴する建物です。発掘調査によって、この一帯は阿麻和利の代に増築され、丁寧に築かれた基壇や多数の柱跡から、2〜3階建ての瓦葺き建物もありうるとされています。

写真は、正殿の出入口から、阿麻和利が部下たちに指示を出すシーンを再現した「ジオラマ(あまわりパークにて)」。地方グスクの域を超えた、もはや“ミニ首里城”大規模な増築で存在感を示すその姿は、首里王府にとって決して穏やかなものではなかったはずです。

<仁然さん>首里から田舎の勝連に移り住んだ王家のお嬢様・妻モモトのために、“ミニ首里城”のような空間を作ったのではないか、という見方もできます。そう考えると、正殿の拡張は権力誇示だけでなく、家族を思う阿麻和利の人間味が感じ取れますよね。

瓦葺き建築は、当時は「繁栄の象徴」でした。三山時代に瓦葺き建物があったとされるのは、浦添城、首里城、そして勝連城の3つのみ。奄美も含めて約300あるグスクの中で、の首里城や浦添城に並び、地方の勝連城が同水準の瓦葺き建築を持っていたのは異例で、勝連の圧倒的な繁栄ぶりを物語っています。

あなたはどの説を信じる?数々の伝承で謎に包まれた阿麻和利の最期

1458年に阿麻和利は謀反を企てたとして、賢雄率いる首里王府軍から攻撃を受けます。戦に敗れたことで勝連城は廃城となり、その歴史に幕を下ろしました。阿麻和利の最期に関しては所説あり、今も謎に包まれています。
写真の奥に見えるのは「ウシヌジガマ」と呼ばれる洞穴城外へ抜ける隠し通路だったのでは、という言い伝えがあります。現在は塞がれ、世界遺産であるため真相は確かめられていません。

頂上の「一の曲輪」にある「玉ノミウヂ御嶽」。現在は御嶽とされていますが、「ウシヌジガマ」洞窟に通じる構造があった可能性も想像されます。史書『球陽』には、阿麻和利は賢雄に討たれたと記される一方で、隠し通路を使って「城から逃げ延びた」という伝承も各地に伝わっています。

阿麻和利の墓は、勝連ではなくなぜか沖縄本島の反対側、読谷村の楚辺(そべ)に残されており(*写真参照)、最終的にこの地まで逃れた可能性も考えられています。

<仁然さん>話していると思わず涙が出そうになるんですが…、首里に忠誠を誓い、結果的に護佐丸や阿麻和利を裏切る形になった賢雄もまた、過酷な人生を背負った人物でした。父親代わりに育てた弟たちを戦で失った賢雄と、幼くして捨てられ、親のいない人生を生きてきた阿麻和利。あまりにも似た境遇だからこそ、最後に賢雄は阿麻和利を討たず、読谷へ逃がしたのではないかと、私は想像します。
阿麻和利は首里を取ろうとした野心家ではありません。「勝連を豊かにして、救われた恩に報いたい」。その一心で生きた、純粋な人物だったと思います。交易や建築といった派手な行動も、すべては地域を富ませるため。しかしその姿は首里には「出る杭」と映り、当時の尚泰久王からすると地方から台頭した父・尚巴志の姿と重なり、脅威に感じたのかもしれません。
だから私は、阿麻和利を単純に「逆賊」とは呼びたくない。人と土地を大切に守り、必死に生きた人物だった…。その想いを、勝連城を訪れて感じ取ってもらえたらと思います。

次回・第6回は、少し趣向を変えてブレーク編。仁然さんとともに、首里にある王家の別邸庭園「識名園」を散策します。グスクとはまた違う視点から見えてくる、琉球王国の暮らしの風景、そして庭園に込められた思想を、仁然さんの語りでひも解いていきます。次回も、どうぞお楽しみに。

※琉球史や神話においては所説ありますが、本記事の内容は琉球王朝の歴史書『球陽』といった書物に基づいています。
史跡巡りは、日除けと虫除け、熱中症対策を万全に、歩きやすい服装で行ってくださいね。

〈施設情報〉

勝連城跡(あまわりパーク管理事務所)
[住所] うるま市勝連南風原3807-2
[観覧時間] 9:00~18:00(17:30最終受付)
[駐車場] あり
[観覧料] 大人(高校生以上)600円、 小人(中・中学生) 400円、幼児(未就学児)無料
*県民割(住所確認が可能な身分証を提示)で大人400円、小人200円になります
[HP] ホームページ

<賀数仁然さんと巡る沖縄の世界遺産>

首里城復興応援プロジェクト「SYURI NO UTA」

沖縄セルラー電話(株)では首里城復興応援ソング「SYURI NO UTA」プロジェクトをサポートしています。

本プロジェクトは、2019年に沖縄にゆかりのあるアーティストが集結し、首里城復興を願う大人から子どもまでみんなが⼝ずさむような、素敵な歌をつくりたいという想いから始まりました。

大切なのは、忘れない心。
そして、伝え続ける勇気。
沖縄県内のみならず、日本中・世界中の方へ「SYURI NO UTA」と首里城復興への想いが届くことを願っています。

「SYURI NO UTA」特設ページ
詳しくはコチラ

 

企画・編集:Laifue編集部
文:花城 綾子
撮影:大下 清志

 

LaifueのInstagramアカウント(@laifue_okinawa)ができました!
よりサクッと!便利でおトクな情報をGETできます♩
ぜひフォローしてくださいね!

記事をシェア