[連載・第7回]賀数仁然さんと巡る沖縄の世界遺産~知られざる首里の歴史スポット「園比屋武御嶽石門」「玉陵」へ~
沖縄には世界に誇る9つの世界遺産があり、約450年にわたり築き上げられた琉球王国の歴史背景や文化に触れることができます。おなじみの琉球歴史家・賀数 仁然(かかず ひとさ)さんガイドのもと沖縄の世界遺産を巡る連載シリーズ!2026年11月の首里城正殿復興に向けて、全8回に渡りお届けします。
第7回は、首里の「園比屋武御嶽石門」と「玉陵」へ。祈りの場として受け継がれてきた聖地や、琉球国王一族が眠る陵墓を巡りながら、今回も仁然さんならではの視点と豆知識を交えてご紹介します。
今回の案内人

賀数 仁然(かかず ひとさ)さん
那覇市出身。琉球大学非常勤講師を経て沖縄大学地域研究所特別研究員。
沖縄の歴史文化をエンタメとして発信。琉球歴史ドラマ、ドキュメンタリー、映画、舞台などの脚本・監修など幅広く手掛ける。所長を勤める「クボウグランデ」の歴史ツアーも好評。著書『さきがけ!歴男塾』の最新・4巻が発売中!
今も祈りが受け継がれる世界遺産「園比屋武御嶽石門」

守礼門をくぐった先にたたずむのが、「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」です。1519年(正徳14年)に築かれた石門で、首里城跡とは別に単独で世界遺産へ登録されています。
琉球王国時代、国王が外出する際に安全を祈願した場所として知られ、現在も沖縄本島南部に伝わる聖地巡礼「東御廻り(アガリウマーイ)」の出発点として大切にされています。 歴史的建造物としてだけでなく、今も人々の祈りが受け継がれる場所であることが、世界遺産として評価された理由のひとつです。

かつて石門の奥には「ハンタン山」と呼ばれる深い森が広がり、神様が降りてくる聖地・御嶽(うたき)として大切にされていました。
園比屋武御嶽石門は、神々と人々をつなぐ“狭間”のような場所で、琉球王国で最高位の神女とされた聞得大君(きこえおおきみ)が祈りを捧げる場所でもありました。国王が外出する際の安全祈願や、雨乞いの儀式などもここで行われていたと伝えられています。
<仁然さん>雨乞いの儀式では、聞得大君に水をかけることで雨が降る状況を表現し、雨を呼び寄せようとしたという面白い記録が残っています。文化人類学でいうところの“類感呪術(るいかんじゅじゅつ)”が見られます。
■穴場な見どころ:“チャンプルー”な石門のデザイン

園比屋武御嶽石門で注目したいのが、独自性あふれるデザインです。
完成当時の首里城正殿にも用いられた伝統的な建築技法である板葺き(いたぶき)の屋根に、左右には「鴟吻(しふん)または鴟尾(しび)」と呼ばれる装飾が施されています。龍の子どもとされ、水をつかさどる神様を表現したもので、雨乞いの儀式が行われた聖地とのつながりを感じさせる意匠です。
さらに中央には、炎に包まれた「火焔宝珠(かえんほうじゅ)」を配置。あらゆる願いを叶える象徴とされる宝珠と水の聖獣の組み合わせは、中国や日本の建築には見られない、琉球独自の組み合わせといわれています。
<仁然さん>下部には唐草模様も取り入れられていて、仏教的な要素も見られます。さまざまな文化が融合した、まさに“チャンプルー文化”を象徴するデザインですね。

<知ってた?RYUKYU豆知識>500年前の扁額が伝える、琉球王国の多言語文化
園比屋武御嶽石門は、琉球王国が繁栄を迎えた尚真王(しょうしんおう)の時代に築かれました。
建築を担った石工の責任者は、八重山出身の「西塘(にしとう)」という人物。首里で石工技術を学び、園比屋武御嶽石門や玉陵(たまうどぅん)の建築に関わったとされ、その後は竹富島の長となりました。現在、竹富島では「西塘御嶽」に祀られ、神として敬われています。
石門には、当時の歴史を伝える扁額(へんがく)が残されています。そこには『首里の王 おきやかもいかなしの御代にたて申候 正徳十四年(1519年)』と記されており、かな文字と候文(そうろうぶん)を用いた当時の公文書の形式で書かれています。
<仁然さん>室町時代にあたるこの頃、琉球王国では場面によって言語を使い分けていました。公文書は日本語のかな文字や候文、日常会話はウチナーグチ(琉球語)、中国などとの外交文書は漢文。三つの言語を巧みに使い分ける文化が、琉球王国の国際性や柔軟な対応力を表していますね!
■穴場な見どころ:首里と港を結んだ琉球王国の重要な道「真珠道」

「真珠道(まだまみち)」は、尚真王の時代に国家事業として整備された、全長約9キロに及ぶ石畳の道です。当時としては最高水準の舗装道路で、首里城と那覇港(現在の小禄方面)を結ぶ重要な交通路でした。
現在、観光名所として知られる「首里金城町石畳道」も、この真珠道の一部です。
この道は、倭寇(わこう)の襲来など有事の際に、首里から港へ迅速に兵や物資を送るための役割も担っていました。琉球が海外交易によって大きな富を築き、周辺勢力から注目されるほど繁栄していたことを物語る存在でもあります。
完成時には盛大な祝賀儀式が行われ、僧侶による仏教儀式と、聞得大君による御嶽での祈りが同時に執り行われたと伝えられています。異なる信仰が共存しながら発展した、琉球独自の文化を象徴しています。
■穴場な見どころ(番外編):いつもの守礼門と違う?台風前だけ見られる特別な姿

取材に訪れたのは8月下旬。いつも見慣れている「守礼門」ですが、この日は少しだけ違う姿を見せていました。その違い、皆さんは気づきますか?
<仁然さん>門の中央にあるはずの「扁額」が外されていますね!実はこの日は台風接近前。強風による被害から文化財を守るため、木製の扁額は事前に取り外されるんです。ある意味、レアな姿ですね!
〈施設情報〉
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
[住所] 那覇市首里真和志1-7 付近 首里城公園内
[HP] ホームページ
琉球王国の繁栄を象徴する王家の陵墓「玉陵」

1501年、尚真王の時代に築かれた「玉陵(たまうどぅん)」は、琉球国王とその限られた王族が眠る陵墓です。国宝に指定され、首里城跡とともに世界遺産にも登録されています。
玉陵は「東室・中室・西室」の3つの空間で構成されています。東室は国王と王妃、西室は王族が葬られる場所。そして中室は、遺体を一時的に安置し、風葬を行うための場所でした。
特徴的なのは、その建築デザインです。屋根には、当時の首里城正殿を思わせる板葺き風の意匠が石で表現されています。これは、亡くなった後も「王として首里城につながる存在でありたい」という、琉球王国の思想を反映したものと考えられています。
沖縄の墓が大きく造られてきた背景には、かつて行われていた「風葬(ふうそう)」の習慣があります。遺体を墓内に安置して肉体が自然に還るのを待ち、その後、骨を洗って骨壺に納める「洗骨(せんこつ)」という葬送文化がありました。玉陵の構造には、こうした琉球独自の死者への向き合い方が表れています。

向かって左側に位置する東室には、歴代の琉球国王と王妃の骨壺が納められています。地下の資料館には、墓室内部の構造を再現したレプリカがあり、玉陵の内部の様子を知ることができます。
■穴場な見どころ:幸福を招く「虎の顔をしたコウモリ」⁉

玉陵の欄干には、龍・麒麟・獅子・牡丹・蓮・地蔵菩薩など、さまざまな聖獣や文様が施されています。中国の吉祥文化、仏教、そして琉球独自の信仰が融合した、多彩な装飾が特徴です。 なかでも注目したいのが、虎の顔を持つコウモリの彫刻。コウモリは中国では「蝙蝠(へんぷく)」と呼ばれ、「福」と音が通じることから幸福の象徴とされてきました。さらに虎の力強さを組み合わせることで、より強い守護の意味が込められています。
<仁然さん>コウモリは“幸福”を意味する縁起の良い存在。虎の顔を持つコウモリは、まさに『鬼に金棒』!最強の守護を表しているんですよ。

<知ってた?RYUKYU豆知識>琉球黄金期の名プロデューサー・王の母「宇喜也嘉」
玉陵の完成時に建てられた「玉陵碑(たまうどぅんひ)」は、現存する仮名書き碑文の中でも最古のもので、当時の文字や彫刻技法を今に伝える貴重な文化財です。
碑面には、玉陵の由来や、ここに葬られるべき人々について記されており、王家の墓を守るための強い思いが込められています。その中には「この書きつけに背く者があったら、天に仰ぎ、地に伏して祟るべし」という趣旨の言葉も刻まれており、王家の決まりを重んじる当時の価値観を感じることができます。
玉陵に関わる人物として、特に注目したいのが「宇喜也嘉(おぎやか)」です。宇喜也嘉は、第二尚氏王統の初代・尚円王(しょうえんおう)の王妃であり、後の尚真王の母でした。
尚円王の死後、次の王には弟の尚宣威(しょうせんい)を推す声がありました。しかし、聞得大君であった尚真の妹・音智殿茂金(おとちとのもいがね)が、即位儀礼の場で尚宣威の前を通り過ぎ、当時12歳だった尚真のもとへ向かい神歌を捧げたことで、「神の意思」として尚真の即位が決まったと伝えられています。
尚真の神号「於義也嘉茂慧(おぎやかもい)」は、「宇喜也嘉の大切な人」を意味します。歴代の琉球国王の神号に母親の名が含まれるのは尚真のみであり、母・宇喜也嘉の存在がいかに大きかったかを示すものとも考えられています。
尚真が成長するまで王を支え、その後の琉球王国の繁栄期につながる基盤づくりに関わった人物として、宇喜也嘉を「琉球黄金期を支えた立役者の一人」と見ることもできます。
<仁然さん>実は、宇喜也嘉は首里の玉陵には葬られていません。1990年代の調査によって、夫・尚円王の故郷である伊是名島に残る伊是名玉陵で、尚円王の姉にあたり、唯一の理解者とされる真世仁金(まぜにかね)とともに祀られていることが明らかになりました。

玉陵の地下資料館では、普段は見ることのできない墓室内部の様子や、納められていた骨壺について詳しく知ることができます。
玉陵に納められた骨壺には、輝緑岩(きりょくがん)など福建省から取り寄せた高品質な石材が使われています。これは、当時の琉球王国が中国との交易を通じて、貴重な資材を入手していたことを示すものです。
時代が進むにつれて、骨壺は琉球石灰岩で作られたものから陶器製へと変化し、装飾も次第に華やかになっていきました。骨壺の移り変わりからも、琉球王国の交易、技術、そして時代ごとの美意識の変化を感じることができます。

<知ってた?RYUKYU豆知識>中室にひとり眠る、悲運の預言者・木田大時
玉陵の中室には、なぜかひとつだけ骨壺が安置されており、それは尚真王の時代に活躍した占い師「木田大時(むくたうふとぅち)」のものだと言い伝えられています。
木田は、尚真王の側近として仕え、優れた予知能力を持っていました。しかし、その才能を妬んだ家臣たちの策略によって「箱の中にいるネズミの数を当てられなければ処罰」という試練を受けることに。
木田は「3匹」と答えましたが、箱を開けると中にいたのは1匹。その結果、誤った予言をしていたとして処刑されてしまいます。ところが、処刑後にそのネズミが2匹の子を産み、木田の予言が正しかったことが判明したという伝説が残っています。
尚真王は木田を救おうとしましたが間に合わず、その才能と功績をたたえ、王族ではない木田を例外的に玉陵へ納めたと伝えられています。

資料館では、歴代王家の骨壺の変遷も展示されています。玉陵を訪れた際は、ぜひ資料館にも立ち寄ってみてください。
次回はいよいよ、最終回!正殿の復興完成が近づく「首里城」を訪れます。
仁然さんの解説とともに、復元された正殿内部へ。琉球王国の激動の歴史をたどりながら、首里城に込められた想いや、未来へ受け継がれる文化の魅力をひも解いていきます。どうぞお楽しみに。
※琉球史や神話においては所説ありますが、本記事の内容は琉球王朝の歴史書『球陽』といった書物に基づいています。
史跡巡りは、日除けと虫除け、熱中症対策を万全に、歩きやすい服装で行ってくださいね。
〈施設情報〉
玉陵(たまうどぅん)
[住所] 那覇市首里金城町1-3
[入場時間]9:00~17:30
[観覧時間]9:00~18:00
[観覧料]大人 300円、 小人(中学生以下) 150円 *現金のみ
[HP] ホームページ
<賀数仁然さんと巡る沖縄の世界遺産>
首里城復興応援プロジェクト「SYURI NO UTA」

沖縄セルラー電話(株)では首里城復興応援ソング「SYURI NO UTA」プロジェクトをサポートしています。
本プロジェクトは、2019年に沖縄にゆかりのあるアーティストが集結し、首里城復興を願う大人から子どもまでみんなが⼝ずさむような、素敵な歌をつくりたいという想いから始まりました。
大切なのは、忘れない心。
そして、伝え続ける勇気。
沖縄県内のみならず、日本中・世界中の方へ「SYURI NO UTA」と首里城復興への想いが届くことを願っています。
「SYURI NO UTA」特設ページ
詳しくはコチラ!
企画・編集:Laifue編集部
文:花城 綾子
撮影:大下 清志
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